昭和五十四年四月八日 朝の御理解


御理解第四十七節
「祈れ薬れにすればおかげも早いが薬れ祈れにするからおかげにならぬ。」


 信心が逆さまになってる。今の教団でのあり方も何かそんなものを感じます。昨日の七日の御大祭を拝ませて貰って教官のご挨拶を頂きました。ほんとに四年後に控えておる百年祭を目指していよいよ御取次成就信心生活運動がいよいよ本当なものになることをもう一段と声を大きくして「皆さんどうぞ宜しくお願いします」と仰ったですよね。あの願いは私共一人一人が受けなきゃならない。ならどうすりゃよいであろうかと、いろんな手立てもありましょう、ね、先日ももちっと文書布教を徹底すべきだ、電波布教はどうなっておるかと云う様なことが百年祭を目指してもっともっとその為されなければならないと云った様な説がございます。
 私は今度の御本部参拝で奥城で頂きました合楽に関わりのある全ての事柄、全ての人どうぞその事柄がスムーズに成就致しますように、その人がいよいよおかげを頂きますようにと云うて、ま願わして貰います教会長として。そしたら神様からね、お前が改まる以外にないと云うことを頂いたんです。ね、どんな事柄もどんな沢山の人が助かって行くことの為にもどうぞ人が助かりますようにじゃなくてです、ね、私がいよいよ信心を頂いて行く以外にはない。それには先ず何と云うてもお前が改まる以外には無いとこう。思うてみると改まらなければならないことがいっぱいあるんです。その一つ一つにでも本気で取り組ませて頂いて改まっていかなければならないです。私はそういう生き方が祈れ薬れだと思うですね。
 教会発展を願わない教会長はありません。信者の一人一人がそれこそ助かることさえよければと云うお道の信心のまあ根本的理念ですから人が助かることさえ出来れば為には先ずお前自身が助かる以外にないんだ。ここんところに私は祈れ薬れと云う事はそういう事だと思う。
 先ず信心を中心に、昨日の御講話が玉水の先生の若先生と云う事だそうですけども、もう相当の年配の方ですね、安太郎先生のだからお孫さんに当たられる方でしょうか。「真のおかげとは」と、私は真のおかげとはですね、結局私共の信心が土台信心がでけて頂くおかげでなからなきゃ真のおかげではないと思う。信心もでけんのにどうぞどうぞとお願いして例えば頂いたおかげはそりゃ真のおかげじゃないと思う。
 これは玉水教会のキャッチフレーズの様に云われております、ね、あすこは大阪と云う所は商都と云われる程商売人の多い所ですからやっぱり説かれるところもそういう又願いに来る者もそういう商売人が多いのです。為にはね自分の商売自分の仕事、自分の財産自分の借金と思うて居るところに、ね、もうそれはおおぜご?にも等しいと云うことを言って居られますね。神様の物を自分の物、神様のお商売をお仕事をね。
 湯川先生まだ大変な御修行時代の時に神様に自分のして居られるお商売のことをお願いなさったら神様から「世に天職と言おうが」というお言葉を頂かれた。ね、これは私の天職でございますと云うのはみんなが申します。天職と思うとりますと、と云うことは神様の職と云うこと。神様のこと職ね、云うならばお前達は神様の奉公人だ、番頭さんだ女中さんだと云う生き方。ね、はぁそげ思やよかですなと天職と思えそして神様が御主人そして私共が奉公人。これも簡単なことである。云うならば合楽理念がね、簡単です、明瞭です、ね、だからおかげがね頂かれるのだと云う様にその合楽理念、助かりのいわゆる理念、ね、もうこれに極まったと。例えばああんな信心すればいいんだなと簡単に受ければ簡単に聞こえるんですけども、みんな世の人が合楽じゃない玉水の信心は、ねそういう風に云われてきたけれどもその神様が御主人そしてそこの奉公人としての自覚されるまでのその内容と云うものをみんなが分かっていない。みんなが分かっとらんらしいですねえ、あのお話の中にあの八つのことを内容として居られるんだと云う話をなさいましたね。   玉水の云うならば主人奉公人と云うその内容には八つの内容がおありになったんだと。私あのはぁこれが大事なことだと思うてひかえたけれどもつい忘れてしもうて三つだけ覚えとったからちょっと書かせて頂いてけれども、それで末永先生が玉水の信者さん方に聞いたと、八つの内容と云うことはどういう事ですかと誰も知らん。まあそれ位なことですよね。皆さんどうでしょうか。合楽理念の内容と云うものをなら八つなら八つにもし分けて八つともにでもいいです、それをもうとにかく泥の信心に極まっただけくらいなら返事が出来ようけれども皆さん合楽のとにかく助かりの理念云われる合楽理念とはどういう事ですかと云われてもなかなかちょっと返事がやっぱでけんのじゃないでしょうか。まあそんなくらいなもんだと云う風に私も思いましたけれどもですね、その内容の私が覚えとる三つだけでもねえそれだけでもお徳を受けるなと。そして私は思うた、私がおかげ頂く筈だなと思うた。ね、皆さん覚えて居られるでしょうかね、皆さん頭がいいからみんな覚えとられるかも知れませんが 第一に親孝行と、もう親に心配かけるということ、親に孝行せんならん、そりゃまだ布教に出られました当初の頃ですね、そのまだ人も助からんし大変難儀をして居られる時にその御両親でしたでしょうかとにかく親御さんが教会にどげなふうにしとるじゃろうかと見げ来なさった。そしたらその日に限ってお参りが多くてお米を一俵のお供えがあった。だからそれを見てあの御両親安心して帰られた。もう明くる日から又厳しいことであったと云うお伝記の中にございます。これは私もあのうそういう事がございました。もう父があのう長浜町のあちらへ参りました時なんかあちらからお魚を頂くこちらからお肉を頂くと云う様な風でですねそげんお粥ばぁっかりじゃなくていい様な働きを頂いてまあその当時ですね、まあ安心して帰ったと云った様なことがございましたがね。それは湯川先生がどのくらい切実に親に心配をかけてはならん、親孝行したいの一念が強かったかと云うことを物語るものだと私は思うですね。
 合楽理念の根本は親孝行だと、だから私がこれだけでもおかげ頂くと思うです。切実さが足りんです。ね、
 次に御先祖を大切にすると云うこと。誰でも粗末にしとる者は居らんけれども、本気で大切にすると云う人が少ない。御先祖は何と云うても家の根だから、次に私が共鳴しましたのはね、もうそれこそ膝を叩いてと云うときはああ云う時だと思うた、はぁあ成程と私は思うたんです。ね、借金の断わりに行くと云うことが八つの中にあったですね。もう大概の者が借金の断わりぐらい辛い事はないです。そりゃ何時何時と約束して何時何時払えればいです。けれどもね、なかなかもって何時も聞いて頂く様にね、もうそれこそ死ぬる思いです借金の断わりが嘘になり又次にも又嘘になると云う様に、湯川先生がおかげ頂かれる筈だと思うた。そして私がおかげ頂く筈だと思うた。この三つが私の信心にございます皆さんが聞いて頂く通りなんです。ね、そういう例えばもう絶対天地に通う神様に喜んで頂けると云うこの三つの例えば芯なら芯が本気ででけた出来ると云うことを先ず自分が願うと云うこと。
 私はもう何年か一年も二年も前か知りませんけれども湯川先生の御信心についてお知らせを頂いたことにあのう大根のお知らせを頂いたんですね。大根のお知らせは苦労なしとこう仰る。だから苦労なしちゃだから修行しようなかじゃなかろうかと云う感じですけれども、そん時の御理解は確かに大根と云うことは大きな根と云うことです。大きな心と云うことです。成程大きな心になったら苦労なかろうと思いますね。問題が問題で無くなって来るです。そこに神様の自由自在な働きを受けることが出来なさったんだと私は思うです。
 昨日私がこの成程玉水がおかげを頂かれるその簡単なキャッチフレーズであるところの”神様が御主人、私共は奉公人だ”と云う自覚に立ってねえ、それが玉水の云うならばキャッチフレーズですけれどもその内容たるや成程神様を動かさずにはおかんと云う内容がおありになっての天職であったんだ、神様の御用であったんだ、神様のお仕事であったんだと云うことになる。ね、それをあんまり簡単に云うからそれをまあ説明されたのが昨日のお説教だったと思うんですね湯川先生の。云うならば真のおかげとは、ね、結局真に神様に通う信心させて頂いてそこに真のおかげが現れない筈が無い。ね、だから真の信心とはと云うことにもいわばなる訳なんです。それはどういう事かと云うとそれは先ずは祈れが先だと云うこと。先ず信心が先だと云うこと。そして薬れである。薬れ祈れにするからおかげにならんと断言しきって居られます。ね、云うならば教団の立ち行きと云うことがです、さあ電波布教をもちっと、文書布教をもちっとと云うてこの頃からその百年祭を目指しての委員会が各教会から五名か六名か信徒会長、初め久留米に参りました。そん時でもそのお話と云うのはどういう事かと云うとやっぱそういう事であった。そして教会の前に掲示板を立てようとか、も少し宣伝塔を立てようとかと云った様なことが中心であったと云う。どこまでもやはり薬れでしょうが。ね、そういう手立てを以って教会のなら発展を願う教団の発展を願うと云うことは薬れです。祈りが先じゃないです。ね、合楽教会ではみんながおかげを頂かにゃならん、私が一生懸命お願いをする。成程一生懸命お願いをするけれども先ずはお前自身が助かるんだお前自身が改まるべきなんだと云うことが先。そして後になら信者の事である事柄のことであると云うことの祈りにならなければね、死角転倒という形になる。いかに神様が御主人です、私は奉公人ですと言いながら御主人を酷使しよる。反対に使用人の方が神様を使回そうとしよる。これでは本当の繁盛に繋がりません。私しゃ昨日ほんとにもう今日の御理解の死覚転倒ですよ。成程と私思ったことはその玉水の先生のお話を頂いて夕べの御祈念最後の御祈念の時でした。もうそのことほんとに結構な今日御教えを頂いたことを御礼申さして貰いよりましたらね、あの湯川先生と云う方はね、おかげを頂いたたんびに改まったと仰るです、湯川安太郎は。皆さんやら私達の場合はおかげば頂かん改まりますからおかげ下さいじゃろうが。私がそして改まりも何もせん。神様をだまくらかしよる。私が改まりますから私がいっちょんしませんからと云う様なそしておかげを頂く。それをおかげの手立ての様に思うとる。ところがとにかくね、祈れ薬れと云うことはね、信心を先にすると云うこと。はぁこれならおかげ頂いたと云う実感の有難い時に改まって行くと云うことは確かに難しいかえって容易いじゃなかろうかと。有難い有難いで改まるとじゃと云う気になったらよ、ね、おかげを頂いて調子に乗り過ぎると云うことでもない。益々自分という者をおかげを頂くたんびに窮屈にしている。その窮屈の中に素晴らしい味わいの有る信心を湯川先生は頂いて居られたと云う事になるのです。昨日そのお知らせを頂いてですね、成程、して今日の祈れ薬れと云うこの御理解ですから、これは器量とか薬とかと云うことではありません。ね、病気だけの事じゃありません。全ての点が祈れ薬れでなからにゃいかんのです。祈れを先にしなければ信心を先に立てなければそれを煎じ詰めて行きよるとお前が改まる以外にないと云うことになるのじゃないでしょうか。ね、そういう信心になればおかげがあると私は云うなら絶対信が生まれて来ると思うんです。はぁほんとにおかげを頂いて勿体ない、有難い。勿体ない、有難いで改まって行こうと云うのです。素晴らしいですね。私共苦し紛れ、はぁもうしません、こうもしませんどうぞおかげを下さいと云った様な普通の人の改まりです。苦し紛れじゃけんで又ちっと楽くになると又元に戻って仕舞う。と云う様なことでおかげが堂々回りと云う様なことになって行くのじゃないでしょうか。もう有難うして勿体のうしてほんとに改まらずには居られない、ね、そういうのなら的確であるし間違いがないと思うですね。今日は四十七節をそんな風に、ね、これは薬とか病気とかと云うことだけではない。お道の信心はね、いわゆる方法論をいかに説いたって駄目。昨日は私は御本部から沢山御本が今度頂いて来て居りますね御直会に、それに「明日を担う者が今、」と云う題でどういう本だろうかと思うて見たら一番初めに私の事が書いて有るんです。中近畿のもう今度の私の講演会の話だけではなくてもうあの座談の時から質疑応答のことから一切が書いてある。しかもこれが全教会にこれが配布されたわけ。ね、中に入って広めると神様が仰るがやはりこれを読んで又感じて下さる先生方やら教会やらが出来るんだと云う風に思うんです。こんな立派な御本がね、ちょっと開けて見たら一番初めに大坪総一郎と書いちゃる。ね、神様が云うならばこっちが宣伝しようと云うのはこれは薬れです。ね、あのちっとラジオ放送やらテレビにも出らにゃいかん、文書布教もどんどんせにゃいかんと云うことに力を入れるのではなくてこちら自体の信心云うなら神様の中に入って広めろと仰せられたがどういう事で広めて下さるだろうかと思うてあっちこっちのあのう大阪講演以来全国沖縄、北海道、あちらの方は沖縄辺りからまでもです、沖縄からあの時に祝電を頂いたですよね。全国都々浦々に云うならば響き渡ろうとして居る。それをこんだ本部の方でこれは勿論中近畿から出とるとでしょうけれども御本部から宣伝して下さる様なもの。ハイ全国にこれ都々浦々の配って下さると云うのです。ね、祈れ薬れの方が効くでしょうが。ね、布教のですいや方法論よりもです先ず自分自身が助かると云う薬ではなくて祈れ、云うなら信心を先にした方が、ね、神様が徹底した云うなら宣伝はして下さる。おかげがそこに見えて来る。ね、そういうおかげをお互いの身の上にも頂きたい。薬れ祈れではなくて、ね、それではおかげにならんとこう、これも断言してあります。薬れ祈れにするからおかげに、それはどういう事かと云うとね、祈れ薬れにしなければおかげにならん。薬れ祈れと云うことはねその薬が効かんと云うことではないですよ。ね、そりゃ信心が無かってもみんなさあ医者だ薬だと云うんですから。それでもやっぱり全快のおかげを頂いて退院しよるから、そしてこの薬は効いたと云うて居るですからね。そういう薬が効くとか効かんとかようなるとかようならんとかじゃないです。根本的なね人間の真の助かりと云うおかげに繋がらないと云うことなんです。自分と云うことが先、薬れを先にすると。ね、だから祈れにするとそれが力になる徳になる。だからその一つの方法をです私共が改まって行かなければなりませんが、その改まって行く、はぁおかげ頂いて有難いと云うそのおかげ頂いたたんびに改まって行くと云う様な生き方をいよいよ見に付けていったらです、もう間違いなくおかげになる。とそれこそ合楽理念じゃないですけれども、絶対助かりの理念と断言して居りますようにね、おかげになると思うです。私共が生活の全般に渡って云うならば祈れ薬れの手立てを身につけていかなきゃならんと思うですね。どうぞ。